<<久留米 「清陽軒」 玉名 「桃苑」>>




「清陽軒」を後にした我々は、豚骨ラーメンの故郷・福岡を抜け、熊本県へと入った。
駆け足とはなったが、福岡エリアにおける豚骨ラーメン発祥のあらましを踏まえた上で、いよいよ県境を越えた伝播を辿る道程となる。

目的地は、福岡県に隣接する熊本県北端、久留米ラーメンの影響を最も強く受けたと言われる玉名市の「玉名ラーメン」である。

久留米市から玉名へは九州自動車道を走り約50kmの移動で、車移動に慣れていればさして苦になる距離ではない。
既に久留米で朝からラーメン二杯を平らげている我々としては、腹がこなれる間もなく到着、というのがむしろ辛いところだ。
昼までの間に、玉名の史跡を巡ることにした。

熊本を含む南九州三県といえば、日本史における近代最後の内戦「西南戦争」の舞台として知られる。
ここ玉名市永徳寺平の河川堤防上には、この地で戦死した、かの西郷隆盛の末弟である西郷小兵衛を偲ぶ石碑が建てられており、今もその魂を慰めている。


旅の相棒 「豚骨号」 川辺に佇む石碑 石碑とともに



高瀬の史跡といえば、さらに歴史を遡り文政の時代に建設された高瀬目鏡橋がある。
船による物流に利用された高瀬川(菊池川)に隣接する人口河川に架かる石橋で、眼鏡のような外見の二連アーチ構造をしており、当時はこの町の玄関として象徴的な存在と見なされていたようだ。


目鏡 └◎◎┘ 目鏡橋とともに



散々記念写真を撮るなりして胃が軽くなった我々は、いよいよ玉名ラーメンの老舗へと向かう。

玉名ラーメンの歴史とは、例によって久留米「三九」の存在に端を発する。
昭和26年、「三九」創業者である杉野勝見氏は小倉への移転を契機に、「三九」常連客であった四ヶ所日出光氏へ「三九」屋号の権利譲渡をした。
翌年、この久留米「三九」の味に惚れた知人による強い希望で、玉名への出店を果たす。
玉名の「三九」は僅か3〜4年で店をたたんで佐賀へ移転してしまうが、その間に熊本の豚骨ラーメン文化へ絶大な影響を与えることになる。
ここ玉名では、「三九」に住み込みで働く当時10代の少年が、昭和32年にその味を受け継ぐ豚骨ラーメン店を開業。
それが玉名ラーメンの代表として知られる老舗「天琴」、そしてその少年こそ「天琴」初代・中村敏郎氏である。

しかし、残念ながら我々の探訪記の日程ではこの「天琴」の定休日を避けられず、訪れることが出来なかった。
そこで我々が次の候補として向かったのが創業30年となる玉名の老舗の「大輪」である。
「大輪」は「天琴」より独立した従業員が興した店で、「三九」の血統を色濃く受け継ぐ「天琴」の直系と言える。



苦労の末の一枚 明るい店内 薫るニンニクチップ



「大輪」は玉名駅からは少し離れた国道沿いにある。
交通量の多い全面の道路は歩道の幅も狭く、向かいの歩道からタイマーで記念撮影するには相当の苦労を要した。
店は赤いテントと暖簾が印象的で、店内は明るく地元常連客で賑わっている。

玉名ラーメンは、濃厚な豚骨スープに中細ストレート麺、トッピングとしてニンニクチップが乗ることが特徴である。
オーダーして出てきた「ラーメン」600円は、まさにその特徴そのままの玉名ラーメン。
ニンニクチップは、着丼後に店員さんがスプーンで好みの量を振りかけてくれる。

さすがに久留米の老舗から時代を経て、スープはかなり強く乳化しており程よい豚骨臭が食欲をそそる。
具は、チャーシューに青ネギ、キクラゲ、海苔、そして前述のニンニクチップとなる。

スープは表面の油膜のせいか甘め、それだけで食べ進むと幾分単調な味に、香ばしいニンニクチップがアクセントを加えてくれる。
濃厚でマイルドなスープの口当たりは、福岡の淡白な開祖系を食べ慣れた我々には嬉しい味加減である。
ニンニクチップ以外は、やはり小倉「来々軒」や久留米「清陽軒」に近しい骨格に感じるが、より近代的であるように思える。
麺も具材もバランス良く、素直に旨い一杯だった。

県や国を隔てる境や河川には、文化の交わる地として史跡が刻まれることが多い。
ある時は「人」が命をかけて奪い合う要所として、ある時は「人」が住む街の玄関として。
玉名には、福岡と熊本を隔てて久留米からラーメンを伝えた「人」の史跡が、確かに存在したのだった。




「大輪」
熊本県玉名市中1177-4
営業時間 [月] 11:00〜15:30 [火・水・金〜日] 11:00〜23:00(材料無くなり次第閉店)
定休日 木曜日
駐車場有り



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